「未来の祀り・ふくしま 2015」開催まで、あと1か月ほどになってきました。
「震災」「鎮魂」「芸能」「祀り」……これらのキーワードがどう結びついてくるのか?
イベント本番にむけた予習的フィールドワークにお付き合いください。(及川俊哉)
地図上で福島市の東側をたどってみていくと、
霊山(りょうぜん)にぶつかります。
今回は霊山方面に向けて東方に進み、
アースパワーあふれる福島のスポットを巡っていきたいと思います。
115号線を東にむかっていく途中に、
文知摺観音(もちずりかんのん)があります。
文知摺観音も、調べ出すと面白いことが隠されています。
(不思議な書体の「甲剛碑」)
文知摺観音には文知摺石があり、これは、百人一首にも収録されている、
河原左大臣(かわらのさだいじん)源融(みなもとのとおる)の和歌で有名です。
陸奥(みちのく)の しのぶもぢずり
誰(たれ)ゆゑに 乱れそめにし
われならなくに
【現代語訳】
陸奥で生産されている「しのぶもじずり」の摺り衣の模様のように、
恋に乱れ染めにされた私の心。いったい誰のせいでしょう。
私のせいではないのに(あなたのせいですよ)。
……源融は陸奥出羽按察使(むつでわのあぜち)という役職につけられたので、
東北方面を担当する立場にあった貴族でした。
ただし、実際には都から出ず、形だけの赴任だったとも言われています。
しかし、自分の庭に塩釜(宮城県塩釜地区での製塩作業の装置)のミニチュアを作るなど、
東北を一種のエキゾチックな趣味の対象として都に紹介した人物でもありました。
「しのぶもじずり」とは、当時福島地域で生産されていた染物のことで、
岩を下に敷いて染料を摺りつけるように(もじるようにして)染色したので、
このような名前になったという説が有力です。
川俣には小手姫の養蚕伝授の伝説などがあり、福島は当時から絹織物の生産地として有名だったのでしょう。
(このとき文知摺石はゲートが開かれていました)
文知摺石のように有名な和歌に詠まれた旧跡を「歌枕(うたまくら)」と言います。
「歌枕」はだいたい都の貴族がバーチャルなイメージとして、
脳内でこしらえたものなので、「文知摺石」のように物体として現存するのは珍しいともいえます。
文知摺観音を管理している安洞院のサイトには、文知摺石にまつわる次のような伝説が掲載されています。
「遠い昔の貞観年中(9世紀半ば過ぎ)のこと。陸奥の地を訪れた源融は、村の長者の娘・虎女と出会います。日ごとに二人の情愛は深まり、融公の滞留はひと月にも及び、再会を約束し遂に都へと戻る日がやってきました。再開を待ちわびた虎女は、慕情やるかたなく「もちずり観音」に百日参りの願をかけました。満願の日を迎えましたが、都からは何の便りもありませんでした。嘆き悲しんだ虎女がふと目を遣ると、「もちずり石」に慕わしい融公の面影が彷彿と浮かんで見えました。しかし、近づくとそれはすぐに消えてしまいます。虎女は遂に病の床についてしまったとき、一辺の歌が都の使いの者により虎女のもとに届けられました。届いた歌には「みちのくの忍ぶもちずり誰ゆえに みだれ染めにし我ならなくに」と、融が遠く都で恋の思いに心乱れている様子が記されていました。故事にちなんでもちずり石は別名「鏡石」とも呼ばれています。」
https://antouin.com/mochizuri.html
(この岩の上に源融の姿が浮かび出たのでしょうか…?)
かなしい恋の物語ですが、ゆるゆるフィールドワーカーとしては、
「虎女」という名前が気になるポイントです。
実は、「虎女」という名前の女性と、岩にまつわる伝説は、日本全国にあります。
柳田國男は『妹の力』という本の中で、このことに触れています。
「さて立ち戻って虎子石の由来談になるが、越中立山の結界に石を止めた止宇呂の尼、加賀の白山に石を遺した融の婆は、あるいは諸国に行脚をして石の話を分布した虎御前と関係があるのではあるまいか。すなわち今日となっては意味も不明なトラまたはトウロという語は、この種の石の傍で修法をする巫女の総称ではなかったろうか。(中略)これらのトラ・トウロ・トランなどは固有名詞ではなくして、道仏の中間を行く一派の巫女を意味した古い日本語であったのであろう。」(柳田國男『妹の力』「老女化石譚」より)
というわけで、柳田の説によれば、「虎女」とは古代に「トラ」と呼ばれた巫女のことになります。
岩にむかって拝むことで、水晶玉の占いのように、
岩になにか模様のようなものが見えてくる(「影向(ようごう)」といいます)。
こうした意識の変容状態から、さまざまな物事の吉凶をうらなったり、
伝説の醸し出す雰囲気から察するに、
男女の恋の相談などを請け負った巫女さんがこの地にいたのでしょう。
(文知摺石のわきにある観音堂は信達三十三観音の第二番札所にもなっています。)
江戸時代になってから、松尾芭蕉は、「奥の細道」の旅で、
文知摺石を訪れています。歌枕として関心があったのでしょう。
【本文】
あくれば、しのぶもぢ摺の石を尋て、忍ぶのさとに行。
遥山陰の小里に石半土に埋てあり。
里の童べの来りて教ける。
昔は此山の上に侍しを、往来の人の麦草をあらして、
此石を試侍をにくみて、此谷につき落せば、石の面下ざまにふしたりと云。
さもあるべき事にや。
早苗とる手もとや昔しのぶ摺
【現代語訳】
明けて次の日、しのぶもじずり石をたずねて、信夫の里にむかう。
はるか山陰の小里に、石はなかば土にうずもれていた。
この里に住む童が来て、教えてくれる。
「昔はこの石は山の上にございましたのですが、往来する人々が麦を荒らして、
この石が本当に思う人の面影の映る石なのか(麦をなすりつけて)ためしなさるのを、
(麦畑の農民が)にくんで、この谷に突き落としたので、
石の表の面が、下になって伏せるようになってしまいました」と言う。
そういうこともあるものだろうか。
早苗をとる農家の女性たちの手元の動きに、
しのぶずりを染めたという昔の人々の手作業がしのばれる。
……というわけで、
現在のもちずり石は恋しい人の面影が映る鏡の表の面が、
地面に伏してあるのだそうです。
残念ですね。
(松尾芭蕉の銅像)
次回は霊山にむかいます!
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